結局、ユリカには何も言わなかった。
彼女は何も聞かなかったからだ。
言いたくなったらいつでもいってくれ、と言われた。
ただその時は、まずちゃんと話して聞かせて欲しい、
と笑ってつけ加えるのは忘れなかったが。
なので、もう少し自分の中で落ち着いたら、話そうと思っている。
その後なんとか資料も無事揃えられて
レポートに本腰いれられるような状態になっていた。
そういえば、何時かブックマークしたサイトはよく覗きに今もいっている。
ダンゴ虫の生態観察日記というよく理解らないサイトなのだが。
その真意を測りかねるものの、真摯な記述にひきこまれてしまう。
今も、息抜きがてら更新分をみていたところだった。
「なんだ、また例のダンゴ見てたのか」
明がディスプレイを軽くのぞいた後呆れたように笑う。
とはいうものの、コイツもけっこうここがお気に入りになっていたりする。
今日はレポート作成の強力な助っ人ということで家に来てくれている。
大学は違うのだが、専攻は同じなのでお互いもちつもたれつなのだ。
明は小学校時代から変らない笑顔で俺に珈琲をはい、と渡す。
思えば長いつきあいになっている。
今はお世辞にも美声とはいえない明なのだが、
その昔は麗しのボーイソプラノだったことも俺は知っている。
その話を聞くたび、奴の彼女は
“なんで私に出会う前に声変わりなんかすんのよ” と真剣に怒る。
俺はそんな彼女や、やぶへびだと困った顔をする明が面白くて
つい何度も繰り返す。そうして明にいいかげんにしろ、と怒られる理由だ。
礼をいってカップを受取ると一休みすべく、ファイルを保存することにした。
明は無類の珈琲好きで、俺の部屋にくるときも
愛用のコーヒーメーカーを持参でやってくる。
上手いの飲ませてやるよ、
といつもニコニコしてやってくるので俺も好きにさせている。
俺にしたところで、美味い珈琲飲めるのに文句なんてない。
「うわぁぁ」
俺の叫び声に、横で雑誌をめくっていた明がなんだなんだと顔を向けた。
「別ファイルとして保存するつもりだったのに、上書きしちまった…最悪…」
元のファイルをテンプレート代わりにして作成したのを忘れていた。
「まいるよなぁ…それは」 明も同情するような声を出す。
「コンピュータって便利だけど、そこらが怖いよな。
上書きされたら元の情報が消えちゃうんだから。
元は同じつうか、この間までははコウだったのが、もう別物に取って代わられる…」
明は続けて、どうだ致命的か?なんとかなりそうなレベルか?と心配げに口にする。
俺は、押し黙っていた。
いや、ファイルの件は痛いことは痛いが幸いにも僅かなテキストだし、
すぐになんとかなりそうだった。
そんなことより――
(もしかして。俺の記憶は “オレ” のそれで上書きされていってるのか?
それとも。俺の中の空き容量に別ファイルとして保存されてるのか?
いったい。どっちなんだ!
いつか “俺の思い出” というファイルは
自然忘却ではなく、“オレ” の想い出にとってかわられるのか?
いや…忘れるって…いままでも忘れた…って片づけてきたことは
本当は何かに上書きされただけなんじゃないのか――)
俺はあらたな恐怖に襲われはじめていた。
「おい。功輔。どうした。真っ青だぞ。気分でも悪いのか」
気づくと目の前に心配そうな明の顔がある。
「明――」
「ん?」
「おまえ、ダンゴ虫サイトのことで、さっきも “功輔らしいよな” って笑ったろ」
「ああ。昔からおまえって、なんかこう一風変ったもんが好きだからさ。
楽しそうに眺めてるお前見てると、なんか微笑ましいっていうか、
まぁ、おまえらしいな、ってことだ。それがどうかしたか」
「だけど、お前も気にいってるじゃないか」
俺はちょっと口を尖らせた。明は笑う。
「そうだよ。ありがとよ。でも俺にはキャッチはできない。お前はできるんだよ」
俺はカップに僅かに残る珈琲を一気に飲み干した。そうして続けた。
「“俺らしい” ってどういうことなんだろう――。
お前の中には、俺という確かな “型” があるのか。それを基準にしてなのか」
いきなり大声だした次には、理由の理解らない問答を押しつけられた明は
目をぱちくりさせて、いささか戸惑った表情を見せた。