何か音がする――。
その間隔がだんだん短くなってきているようだ。
俺は我に還ったように、頭を上げるとようやく蛇口を閉めた。
そして気がついた。ああ、玄関の呼び出し音だったのか。
のろのろとそこまで歩いてゆき、ゆっくりと扉を開けた。
「もうっ…どうしたの。何度押したとおも…」
笑顔でそこまで言った女はそれきり
頭の先からびしょびしょになり雫たらす俺に言葉を失った。
その女はただならぬものを俺に感じたようだった。
「…入れよ…」
俺は硬直した女を押し込むように招き入れた。
笑おうと思ったのだが、どうも上手くいってないらしい。
女のより強張った顔がそうだと教えてくれた。
女はようやくしぼりだした声でひと言だけいった。
「――とにかく頭ふいたら。そのままじゃ風邪ひくわ…」
「いいんだ」俺は掠れた声で答える。
「よくないわよっ。功輔くん、あなた最近へんよ」
そして、あなたが取りにゆかないならば、
と替りに勝手しったる置き場所へと歩きかけた。
「タオルなんていらない。そんなことより――」
俺は女に覆いかぶさった。
バランスを崩した女はカーペットの上に倒れる。
「痛いっ。やめてよ。何するの――」
抵抗した。その抗いを当然だと俺のマトモな部分は解っている。
でも、俺は止めなかった。
聞こえないフリをした俺は、最低な野郎だとも思った。
女は怯えながらもしっかりとした口調で言った。
「――どうしたっていうの? まるで別人みた…」
俺は女の言いかけた、そう、言いたい意味はわかっていた。
でも、今はその言葉は “言葉通り” にしか聞こえなかった。
そのことが、俺をより絶望的にさせたなんて彼女は知る由もない。
いや、彼女には、ユリカには何の罪もない話ですらあった。
「目を開けるな」
そういうなり、彼女の両のまぶたを俺の指は乱暴に閉じさせた。
ユリカが続けるだろう言葉が恐ろしくて、その口を自分の口で塞いだ。
そうして、俺は自分の目をも閉じた。そうだろ?だって――。
俺は “開いた” もの全てが恐ろしかった。
だから全てを塞いでしまいたかったのだ。
そこから何も俺に入ってこないように。
そこから俺が何処にも出てゆかないように。
だから――ユリカの全てを塞いだ。何もかも塞いだ。
ユリカはいつか静かになった。押し黙り通した。
それは俺を受容したのではなく、怒りのためだったはずだ。
(ウエダさん、この間のこと許してくれるだろうか…)
まだ――まだ、塞ぎたりないというのか、クソッ。何処なんだ――。
初めて俺は目を開ける。視点が定まらない。見つからない。
俺の下でもはや身動きすらできないユリカを俺は――俺は尚も押さえつけた。
無言のまま身を起こしたユリカは俺を殴ろうとしたんだと思う。
振り上げた手が宙でけれど止まった。
俺が身体を震わせ泣いていたからだったのかもしれない。
本当は俺をひとまずなじりたかったに違いないだろうに
それをぐっと押しとどめるようにして、静かにもう一度言った――
「功輔くん。どうしたの…本当に…何があったの…」
俺は「わからない。なにもわからない」とだけ繰り返し泣いた。
「怖いんだ。俺が俺でいる確証なんて実は何処にもないんだ。
頼む。俺を塞いでくれ。俺と世界が繋がっているところを全部」
俺は世界でひとりぽっちになった子供のようにしゃくりあげた。
俺の濡れた髪をやさしくかきあげるユリカの指がそこにあった。
「そして――そのかわりにお前で俺をいっぱいにしてくれ。
もう他のなにひとつ入る隙間もないくらいユリカ、お前で俺を満たしてくれ。
俺の何処を切っても俺の知らないオレがでてきたりしないように。
おまえがそこからあふれでるように――」
ふわりとした感触が俺を包んだ。
ユリカはもう何もしゃべらなくていい、という合図のように
その胸で俺の口をまず塞いだ。
そうして、ゆっくりとその柔らかな唇で
目を耳をすべてを――順番に塞いでいった。