俺はいてもたってもいられず洗面所へと走った。
鏡の前に立って、改めてそこに映る一人の人間の姿を見つめる。
見覚えある顔。最近は疲れもあって少々くたびれてるが、元気がいいのが取り柄だ。
首にあるホクロもちゃんと知っている。眉の上を指でそっと探る。
ああ、ちゃんとあるじゃないか、もうすっかり薄くなって見ただけではわからないけれど
ここには小さな傷跡があるんだ。
幼稚園の頃、三輪車から落っこちた時つくった傷だ。
今はもう、俺と親兄弟と、そしてユリカぐらいしかしらない。
いつだったか、ここに唇を押しあてた時気がついたユリカに、コレは何?と聞かれたんだ。
俺の答えを聞くと、ユリカは
“昔っから落ち着きがなかったのね” と愉快そうに笑った。
そうして聞く以前よりずっと愛しそうにそこへ唇を押しあてたんだった。
それからユリカはいつもその眉の生え際辺りにキスするようになった。
俺は何度も繰り返しその辺りを自分の指で撫でた。
だから――俺は俺なんだ。
たまらず今度は声に出してもう一度言った。
「俺は誰でもない。俺は、確かにいる。俺だけが俺だ。俺が俺だと思う俺が俺なんだ」
本当にそうか――?
断定すればするほど、同じ強さで不安が俺にはねかえってくる。
俺は本当にいるのか?
今鏡に映っている怯えた男を、俺だと思い込んでるだけじゃあないのか?
いや、俺には俺として積み重ねてきた体験、記憶があるじゃないか
それが本当に俺として実際に経験してきたことだと、どうして断言できる?
一瞬にして植えつけられたプログラムだったりしたらどうするんだ――
ゲームで最初にキャラ設定するのと同じだ。
突然現れた彼はけれどすでにいろんな体験をしてきたことになってるじゃないか
それも開始前の気まぐれとも言えるプレーヤーの設定で一瞬に。
いや…落ち着け。考えすぎだ。
けれど浮んだのはもっと恐ろしいイメージだった。
俺は周りの奴らの “認識の結果” が物質化したものにすぎないんじゃないか?
誰かが俺なんか存在しないと脳に指令を出したら…
そのとき俺は消えるんじゃないだろうか――
俺は思わず鏡の前で身震いして後ずさりした。
それはあまりに恐ろしすぎる仮定だった。
そんな発想してしまったことを激しく悔いはじめた。
震える両手を交差させて我が身をしっかと抱きしめるようにした。
どれだけ腕に力を込めても何の確かさも感じられない。
脂汗がじんわりと指の先に滲む。額からも汗が噴きだしている。
俺には見えた――
毛穴という毛穴から汗腺という汗腺から
“俺” が流れ出してゆくさまが
“オレ” という誰かが入り込んでゆくさまが
洗面所の蛇口を狂ったように全開させる
ごうと音をたてて水が迸ってゆく。
俺は無言で頭をその激流のしたへ突っ込んだ。
俺から流れ出る汗を見たくなかった、止めたかった。
汗の一粒一粒が俺の何かだと思えたからだ。
声を出したかったが、食いしばって堪えた。
声を出すと俺を支えている何かが崩壊してしまいそうだった。