とりあえずひとつ大きく深呼吸してみる。
アオキ…あおき…青木?…そんな奴知り合いにいない。
そんな奴と何を煮詰めるんだよ――だいたい “例の件” ってなんだ。
というより。なんでこんなことが頭に浮んだんだ。
それも、あまりに自然に…まるで昨日も明日も俺はアオキがあたりまえに
存在している日常を送っているかのように――そんな奴知らないのに。
まるで、俺がさっきユリカのことを、あたりまえのように思い浮かべたのと
同じ種類の “地続きさ” 加減じゃないか――。
ユリカは確かに知っている。俺の日常のなかに確かにいる。
だけど――俺はアオキなんて知らない。
すると空耳か。
いや違う。何処か外から聞こえてきたわけじゃなかった。
俺は疲れているんだ。そうに違いないと思うと少し気分はラクになった。
そういえば、今日は調べものに追われて昼飯くってないことにも気がついた。
そのせいだと思えば全て解決できるような気がした。そうさせたかった。
何を焦ってたんだ、という可笑しさの気持ちがかちはじめた頃
バイクのキーを左人差し指でまわすようにして掴みあげ
右手にはメットを抱え俺は部屋の鍵をしめた。
コンビニでなにか食べるものでも買ってこよう。
口笛を小さく吹きながら、アパートの階段を軽快におりてゆく。
そのときだった――。
(明日はもう一度旅行代理店に行ってヨシムラさんの話を聞かなくちゃ。
出発ももうすぐだな。まだ実感湧かないけど。ワクワクするな。
おっと、その前にカトウにも電話しとこう。アオキの件もあるし)
俺は思わずバイクのキーを落とす。
コンクリートに幾分甲高い音が響く。
それは “確かな” 音だった。
そして泣きたくなることに――
同じくらいの “確かさ” で、ヨシムラさんや、カトウもまた響いてきた。
連続するフィルムのコマが頭をよぎる。連続するということは前後があるのだ。
そのフィルムをまわしているのは、俺だと思われるのに。
その何処にも俺はいない――ようにみえる。
口笛は止まった。笑顔はもう何処にもなくなっていた。
ただ、背筋を一気に駆け上がってくるざわざわした感覚だけが
やたら鋭敏なものとしてあった。
まだ30度はありそうな蒸暑い夏の宵なのにも関わらず
寒くてたまらなかった。なので思わず歯もガチガチと鳴った。
生まれて初めてだと思った――こんな恐怖を感じたことは。
(助けてくれよ、ユリカ)
心の声で俺は呟く。
泣きたくなるほど――
それは “例の理由の理解らないオレの声” と “同じくらい” 確かだった。
言いかえれば、同じくらいの確かさでしか、ユリカもいなかった。
震える手でキーを差込む。
メットの下で、実を言うと俺は泣いていた。