「だからお願いしたいんだ。今ならきっといい絵が描けると思う。
そして、君さえ受取ってもらえるならだけど――
感謝の気持ちを込めて贈らせてほしいんだ」
静かに聞いていた彼女は、
まるで悠久の時を過ごしてきた旅人のような笑みを浮かべて言った。
「ありがとう――。でも…」
「でも?――でも何なの?」
間隔を空けずに僕。
「……でも、私はもう行かなければいけないの」
無駄だと知りながらも言わずにはいられなかった。
「絶対に? どうしても?」
「……。ええ…。ごめんなさい」
彼女はゆっくりと窓の方をみやった。
「――じゃ、もう行かなくっちゃ…夜が明けるわ」
遠い何処かを見つめるような瞳をした後、ゆっくりと振り返り僕を見た。
もう僕には何も言うことはできなかった。
柔らかい声の調子だったけれど、それは抗えない何かを感じさせたから。
「…。
理解った。ゴメン。困らせて。
最後にもう一度言うよ、ありがとう。
そして…聞いていいかな?」
「ええ」
彼女は小さくこくりと頷いた。
「どうして僕の夢を叶えてくれたの?」
少女は僕に背を向けて、開けた窓に腰をおろした。
「恩返しよ…。ささやかなお礼。わた…」
「えっっ!?」
最後の言葉はあまりに小さくて、夜明けの風に吹き流されてしまった。
「わた…何なんだい!? 聞こえなかった、もう一度!」
次の瞬間。突然現れた少女はまた突然僕のもとを去っていった。
蒼い空気にのって駆け出していってしまった。
「浩平くん、君はもう大丈夫よ」
彼女は笑った。
まだ名前さえ聞いてないのに――。
僕は声を限りに叫んだ。
「ぼくら何処かで逢ったことないか――っつ」
だけど彼女はその問いかけには応えず、笑いながら朝もやのなかへと消えていった。
遅い朝食をとりながら、僕はずっとあの不思議な出来事のことを考えていた。
ぼぅっ、としていたせいだろうか。
テーブルの上に辛うじてバランスを保ち乗っかっていた本の山に腕をぶつけてしまった。
本の山はものの見事に崩れ勢いよく床へと落ちていった。
半ばうんざりしてなすすべもなくその様子を眺めていた。
床に散らばった本の間に、一通の葉書がはさまっているのが目に入る。
拾い上げてみると、故郷の友人からのものだった。
「そういやあっちにもしばらく帰ってな…」
“!!!”
僕は慌てて残りのトーストを口に押しこみ無理やり珈琲で流しこんだ。
そして何かに急かされるよう着替えを済ませると部屋を飛び出した。
―――― もしかして…いや、そんな馬鹿な!――
心のなかで何度も繰り返し呟いた。
「でも……」
列車に揺られながらもまだ信じられなかった。
もう車窓の風景どころではなく何一つ目に入らなかった。
もどかしげに腕時計にばかり目をやっていた。
――まにあうだろうか…?