HOME

Blue Night - 月がおちてきそうな夜に -

SCENE 7

僕は冗談ぽく笑った。
なのに、彼女は頬を赤らめてうつむくと
“ごめんなさい、そんなつもりじゃ…” と消えいりそうな声でいった。
僕は慌てた。

「ゴメン。ゴメン。冗談だよ、冗談。
皮肉で言ったんじゃないから…気にしないでよ、ゴメン」

ひとつ深呼吸して。僕はそうして話し始めた。

「…いろんな風だったよ、それは。
例えば、ある奴、ケンジっていうんだけど、そんなことは別にいいか…はこういった。
僕の絵からは、実際に形になって描かれてるものしか見えてこないって。
その向こう側にある、形に出来ない “何か” が全く見えてこないって。
それって、何なんだよ、お前はそんなものを描こうと目指してるのか?って僕は言った」

「その、ケンジ君はどう言ったの?」

「奴は呆れて肩をすくめて、もういいや、とだけいったよ。
そして、“でも、これだけは言っておくよ” といって続けた。
“俺は対象の表面を正確になぞることなんかにゃ興味ない。
それは大事だろ、って? 当たり前だろ、そんなの。
じゃなくてそんなものは前提なんだよ。
その上で、その対象の奥底にあるものを見つけたいんだよ、俺は。
そうできるように自分なりに頑張ってんだよ。”
ケンジの声は最初怒った風だったけど、最後は静かになってそういったんだ」

僕は頭の中で明確に像を結ぶように今また現れたケンジに心で語りかけた。
“本当にそうだ。おまえの言うとおりだったよ”

「のっぺらぼう、ってのには笑ったけどね」
頭の中に立つケンジは、ニヤニヤと満更でもないようにただ笑っていた。

「あっ、そうだ。別の奴はね。
僕の絵は、技術(テクニック)の面ではもう抜群だって。
でも、不思議にね、テク以外の感想って聞かせてくれたことなくってね…。
もっと素朴な言い方した奴もいたっけ…」

僕はいささか芝居かかった大仰な抑揚でいう。
「“君の絵は上手い! 感心する! だけど――”」

「だけど…?」

「――だけど、ちっとも感動しない、ってさ」

彼女は何もいわず黙って僕をみすえている。

「結局…みんな同じこと言ってたんだよ。
クサい言い方するなら、愛がないんだ、ってことさ。
でも。技術を磨くことに必死だった僕には解らなかった。
で、そのうちに例のモヤモヤがどんどん大きくなってきてイライラしはじめたんだ。
何かを自分は忘れていて、どうにかして思い出したいんだけれど、どうしても思い出せない。
でも、それは凄く大事なことのような気もして、またイライラしてしまう…」

僕は、ここまできて、やっとキャンバスの方へ目をむけた。
「で、とうとう何も描くことができなくなってしまったんだ。ご覧のとおり――」


一息に喋ったせいか声がすこし掠れてしまった僕は、残りの珈琲を喉に流しこんだ。
もうそれは冷めきっていて、ただ苦味ばかりを舌は感じた。僕はなおも続ける。

「でも、君と出逢って――僕は思い出したんだ。一番大事なことを。
何かに、誰かにたいして何らかの思いを抱いて…それをどうにかして伝えたいから
僕は描こうを思い始めたんだ、ってことを。
下手でも何でも構わない…ってことはないけど、それよりもっと大切なことがある。
描きたい、描かずにいられない気持ち――そんな思いのことをずっと忘れてたんだ。
おかしいよね、好きだったんだよね、絵を描くのが――だから描いていた理由(わけ)だし。
他にもいろいろ方法があるなかで、こどもなりに絵を選んだことにきっと理由はあったんだ」

僕は、キャンバスのところまで歩いていった。そしてそっとその肌をなでた。
「好きだったからなんだろうし。まぁ、そうなったのにも何か理由があったんだろう、きっと。
いつのまにか、 “何故描くのか” じゃなく “いかにして描くのか” に
がんじがらめにされてさ、上手く描くこと以外目に入らなくなってたんだろうと思うよ。
うん、簡単なことすら見失ってしまうくらいに」

キャンバスに重ねられた絵具のデコボコが僕には何かひどく愛おしく思えた。
「もしかしたら。あんなにも真夜中の美術館に行きたがってた不思議な気持ちのうち
幾らかはこのことに気づくためだったのかなぁ、なんて気もするよ、今となっては。
もちろん、ロマンティックな思いつきとして始まったのに違いないんだよ…、でもね
さっき美術館のなかを歩きながら、トンネルの出口が近づいてきてるのを感じてた」


「長いトンネルだったわね」
僕よりずっと大人びた少女は、しみじみとした口調でいう。

僕はすっかり掠れてしまった声で答える。
「あぁ。本当だ」

next >>