美術館のなかへは、まるで嘘みたいに簡単に入ることができた。
彼女は鍵なんてもってはいないはずなのに…。どうしてなのだろうか。
けれど、今の僕にとってはもう、そんなことはどうでもいいことだった。
もとより。
“あんな風に” 僕の前に現れた彼女に、その不思議さを求めるのは
あまり意味がないことのような気もした。
それより。
今、僕は夢にまで見た “真夜中の美術館” にいるんだ。
それも天使 (?)と一緒に。
そのことのほうが大きなことだったんだ、ずっと。
――そして
思っていた通り、いやそれ以上に至福の時を得たんだ。
幾度堪えきれずに涙を流したのだろう。
僕は長い長い迷路からやっと抜け出せる予感を感じていた。
帰り際、振り返り僕はもう一度、美術館を痛いほど見つめた。
暗い闇のなかで それは月明かりを浴びながらぼんやりと浮んでいた。
もう、思い残すことは何一つなかった。
多分、これが最初で最後になるに違いない。
でも構わない。
あの時間(ひととき)は僕のなかで永遠に生き続けると知っている。
「ありがとう」
僕は彼女にむかい深々と頭を下げる。
この短い言葉しか見つけることができなかった。
実際は、ありとあらゆる感謝で身体中いっぱいなっていたのに。
顔をあげると、そこにはあの、目にする者すべての心をとかすような微笑があった。
何故だろう。この笑顔を憶(し)っているような気がしてならない。
それは初めて彼女を見たときから…。
どうにも思い出すことができない僕はの頭はそこで足踏みさせられる。
また歩き始た僕たちを月はなおも照らしつづけている。
“ねぇ、落っこちていくよ、いいかい?” って耳元で囁かれてる気がした。
宇宙飛行士がうさぎと一緒にフォークダンスを踊っているのが見えた。
アパートへ向かいながらも、僕はまだゆっくりと余韻に身を浸していた。
「不思議な娘(こ)だね、きみは」
独り言のように僕はつぶやいた。
「え?」
言わんとしている意味を今ひとつ計りかねるように、
彼女は少しだけ驚いたように声を出した。大きな瞳は驚くといっそう大きくなるらしかった。
こちらとしても、何の気なしに呟いただけだったので
面とむかってその大きな瞳に見つめられると困ってしまった。
あぁ、そうか。おつきさまはこの目の中に落っこちたのか…。
「……。
君は最高の芸術品だよ。
あの信じられないような名画の山のなかでさえ、全く君は対等に光り輝いてた。
まるで、あの宝石のひとつみたいな気がして。
思わず錯覚してしまいそうになったよ、何度も…」
そして冗談ぽくつけくわえた。
「…なぁんてね。気障な奴!」
もちろん。
冗談どころではなく、心の底から本当にそう思っていたのさ。
彼女はひとつ吹きだすとすぐに屈託ない声で笑い出した。
しばらくの間、彼女は笑いつづけていた。
もしかすると照れくさかったのかもしれない。
泣いてるようにも見えた。あまりに笑いすぎていたのかもしれない。
ふと見下ろすと、橋の下では緩やかな流れのなか、
映る月の姿がゆらゆらとしていた。
どうやら月さえも笑い出したらしい。
僕らは半月形の橋のゆるやかな坂を、走るように下っていく。
かけながら僕は尋ねた。
「どうしてあんな簡単に入ることができたんだい?」
少女は笑って答えなかった。
僕はそれでもいいと思った。
髪の間を通りぬけてゆく蒼い風が心地よかった。