信じてもらえるだろうか。
しばらくの間、僕は呆けたようになって立ちつくしていた。
よくビールを落っことさなかったと思う。
もうしばらくして、やっと出た言葉といったら…
「いったいぜんたい…。ココはアパートの3階だぜ…」
あまりに間抜けた発言だとは思うけれど、その動揺の大きさに免じて許してほしい。
“彼女” は、外から窓をコンコンとノックしながら、なおもニッコリ微笑んでいる。
とうとう気が狂ったんだろうか__?
そう思ったと同時に彼女は口を開いた。やわらかそうな唇だった。
「もし、よろしければ窓を開けてくださるかしら?」
よく通る澄んだ声だった。
僕は内心パニック状態のまま(表面は至極冷静を装っていたものの)
とにかく彼女を部屋に招きいれることにした。
だいいち―誰かにこんなところを見られたら、それこそ大騒ぎになるに違いない。
何故って、どう考えても彼女は
この夜のなか月の光を受け空中に浮いているとしか考えられないのだから__。
「どうぞ。あまり綺麗なとこじゃないですけれど」
彼女は僕の差し出した手にそっとその華奢な手をのせた。まるで陶磁のような。
心臓の鼓動に気づかれたらどうしようなんて僕の不安をよそに、
彼女はふわっ、と踊るような仕草で無事着地に成功した。
その身体はまるで綿のように軽く僕は甘い眩暈のようなものを感じていた。
彼女は、その少女は、例えようとした途端に全ての言葉が朽ちてしまうほど美しかった。
もし、天使というものが本当に存在するならば、
それは彼女、この少女に違いないと断言できるくらいだった。
僕はすっと忘れていたある感情を思い出したような気がした。
でもそれが何なのか全然解らなかったし、だいたいそれどころじゃあない、今は。
彼女はとびきりの笑顔で会釈した。
「こんばんは。 藤戸浩平くん」
「こんば…!?」
次の瞬間、思わず大声で叫んでいた。
「 ど、どうして、オ、いや僕の名前を…!!」
「ふふふ。貴方のことなら何でもしっているわ」
悪戯っぽく笑いながらひと言だけ少女はいった。
全然答えになんかなってない、もいいところだ。いったい何者なんだ__?!
ポーカーフェイスを気取ることなんてもうすっかり忘れきってる。
なおも言葉を続けようとしている僕に彼女は言う。
「それより。 さぁ、はやく出かけましょ」
「!?…。出かけるって、何処へ…?」
彼女はよく動く瞳をくるくるさせて、何を今頃というような表情をしていた。
「何いってるの。 美術館に、に決まってるでしょ? 真夜中の美術館に !」
「誰が ??」
状況をいまだよく把握できないまま(誰がそれを責められるだろうか)
僕はキョトンとして尋ねた。
「あ・な・た・―に決まってるでしょ?。
いつも思ってたでしょ。真夜中の美術館に行ってみたいって」
そ、それは確かにその通りなんだけれど―。
「あら。信じられない、って顔をしてるわね。大丈夫よ大丈夫、心配しないで」
彼女はそっとひとつウィンクすると
何か言おうとした僕の口をその人差し指で塞いだ。
なんてこった。
彼女は僕よりもずっと年下のはずなのに、時々妙に大人びてみえる。
まるでこっちの方が年下(こども)みたいな気がしてくるから不思議だった。
「さぁ。 時間は限られているの。夜明けまでには戻らなくちゃならないわ。行きましょう」
言うがはやいやドアの方へ歩いていく。慌てて僕もそれに従う。
窓からの方が早いのに…と思ったけれど、どうやら僕づれでは無理らしい、当然か。
本当に―。本当なんだろうか?
僕が部屋のドアを閉め鍵をかけようとしたその時、12時を告げる音がした。
____どうやら。
彼女はひとまずシンデレラ姫じゃないらしい。
例の美術館は、僕の住むアパートからはけっこう近い。
アパート前から迷い子のような路地を抜けると大通りにでる。
その賑やかな大通りを越えると両脇に街路樹の続く静かな通りに今度はでる。
その道を真っ直ぐに進んでゆるやかな半月の形をした橋を渡れば、そこが美術館だ。
最後の通りは、鼻歌を1曲唄うくらいの距離なので、唄うたいの道と僕は呼んでる。
ものの十分もかからない。 思えば恵まれた環境だと思う。ボロアパートだけどね。
アパートを出ると。待ち構えていたかのように夜の風が僕の全身を包んだ。
歩きながら、今更のように星の美しさに気づいた自分に驚きもする。
まるで酔ってしまいそうだ。
大通りを過ぎると、辺りにはもう人影一つなく
樹木の葉が時おり風に揺れさざめく音だけが響いている。
この蒼い夜の下、まるで月の光に透けてしまいそうな彼女の横顔をみつめながら
僕はこの不思議な時間(ひととき)のことをぼんやりと考えていた。
もしかしたらすべては、このあまりにロマンティックな蒼い夜が見せた幻影(まぼろし)なのだろうか。
僕は痛くなるほど背を伸ばして顔をあげ空をみる。
遠いと思っていたそれはおもうより近く、月はいまにも落っこちてきそうだった。
いつのまにかふたりは橋の真ん中あたりに来ていた。
僕はこの何処からかやってきた少女と一緒に橋を渡る。
美術館に近づくにつれて解る、どんどん胸が高鳴ってくる。
とうとう夢が叶うんだ。
信じられない。
夢ならどうか醒めないでおくれ、お願いだ。
だけど…どうして彼女はそのことを…。
すると、いきなり僕の方をふりむき、まるで見透かしたように言った。
「言ったでしょ、浩平くん。貴方のことなら何でも知ってるって」