900907

ANDY SAYS

ポンピドウ・センターでは、 ANDY WARHOL の 大々的な回顧展が催されている。

日本を発つ前に ひょんなことから この時期に開催されることを知った。

パリ滞在予定期間と うまいぐあいに重なりそう、という 嬉しい偶然だった。 よって、これは逃す手はない、 と楽しみにしていたもの。

Paris で Warhol ――なかなかよいんではないでしょうか、とね。

さて。 私たちは基本的にこういう場所 (美術館など) では 別行動を自然にとるようになっていた。 じぶんのペースで好きなように動いているが たまに ? 出遭うと感想を述べあったりする。 で、またお互いのペースでそれぞれの方向へ進みだす。 でもって、観終った後、感想を言いあったりするのも楽しい。

だらけだらけだらけだらけ

MICK JAGGER でついテンションが上がるのは、 哀しい “サガ” だと我ながら思う。

まおちゃん (毛沢東) の部屋のインパクトが凄い。 毛沢東だらけ――だ。 “〜だらけ” のパターンは多いいのだが― 何某の「部屋」 (by ぢぶん) と呼ぶ所以でありますが― 一番インパクトがあるのは、何と言っても 毛さんだったりする。 まおちゃん自身の良くも悪くもパワーか ウォホールの技術の勝利か。 それとも、ウォホールがアンプリファイアーの役目をしての 相乗効果なのか、それは理解らない。

circulation

膨大な量の彼の作品を観て気がついた。

今までも、理屈の上では理解ったつもりだった。 でも、実は、全然それは、私にとって 血肉化した 「気づき」 ではなかったことも理解った。 実際に、その 「装置」 の前に我が身を置いて体験したリアリティは 直接私の “カラダ” に働きかけてきてしまう。

同じモチーフが、ひたすらえんえんえんえん、規則的に続きつづける。

色使いの変化は、現実という世界に属している各モチーフを まるで非現実との境界まで流しだし、不安定な足場の上においてしまう。

脳のなかの内なる闇?に 「作りだされた」 閃光―― うまくは言えないが、そういった閃光が連続してく流れのさまを まるで映画のコマのようにカット割してるんじゃないか? …という気さえする。

要は、ドラッグということなんだろう。 あれは たぶん その彼方に開かれ、続く世界なのだ ろう。 あの、寸分違わぬモチーフがひたすらフラッシュ・バックするかの如く 我慢の限界ギリギリまで、テンポをしかし崩さず単調に続くのは。 わたしは、全くそれとは無縁の人間だから あくまで想像、果たしてそうではないか? という世界の話ではありますがね。

system ?

また同時に、 コレは、 「装置」 なんだろうな。 またある種の vision といってもいいのかもしれないが。 「装置」 の働きによって、トリップさせることも可能だろう、
(つうか、それが Art のチカラなはずだから)
でもこれってシラフじゃないほうが面白かったりするんだろうか… とかいう気もしてきたりすると…なんだかなぁ、と シラフ?のこちらとしては思わないでもない。 だって…なにか仕掛けがあるような気がしないでもなし、で。 根拠の無い妄想ですが ^^;

ばななんばななん…

わたしは、ひじょーに鈍感なもんで 今まで “あの” 単調な連続が不思議でかつ 正直言って少々苦痛ですらあったんですが。 何であんな技法を採るのだろう? かったりぃ…っていうか。

過去に小さな Warhol 展は、何度か行ってるんだけど (基本的にファンですからね、はい) いつも内心上のように思ってたりもしていたという…。

(昔から Warhol = drug と結びつける説になるほどと納得してたくせに この点に思い至らなかったということは、 やはり何にも “気づいて” なかったわけですね。ダサすぎ…)

この展示で納得できました、とか言って。 ドラッグ・アートだったのねぇ〜 (⇒ 何を今更、あほたれ…と突っこまないで頂きたいものです)

そうそう。 物販には、 Warhol 関係の post cards が迷う程いろいろ置いてあった。 THE VELVET UNDERGROUND&NICO のアルバム・ジャケに使用された “ばなな” もある。 そう、あのあまりにも有名な例のヤツ。うひょひょ。

petty cashbook
チケット FF 35 Andy Warhol(Centre Georges Pompidou)
パンフ FF 50 Andy Warhol 展用
post cards FF 38 5葉 Warhol 展 物販

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